映画2 / 音のない世界で(ニコラ・フィリベール)と西条八十

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紀念──という言葉を度々目にしながら、記念との違いは何だろうかとはあまり意識せずに居たのですが、辞書で調べてみるとどうも意味に違いはなくて、中国の表記では「記念」ではなく「紀念」を用いる場合が多いらしい。日本でも大正期の文学では紀念が一般的だったように思うし、紀には「記憶に留める」、念には「懐かしく思う」という意味がそれぞれあるようで、紀念には「物事、人物を長く記憶に留める」という名詞としての意味があるという事が分かると、言葉の美しいのを感じるのと同時に、日本でも紀念という表記で居て欲しかったように思います。

音のない世界で(ニコラ・フィリベール監督)』は、聴覚障害のある聾者のドキュメンタリー映画で、少し前にこの作品を観てから言葉というものを考える機会を取り戻したような気がしていて、昔読んだ現代詩やら、やたらハマった動詞表現(これは図書ではなくて、アプローチとして勝手に模索していた)やらを思い返す事が増えた。手話という言語はとてもよく考えられている処があって、表現として表情に溢れた視覚的な面白さがある。こちらはそれを単純に外から眺めて楽しいだけのおサルなのですが、言葉の意味をよくよく考える事なく、ただ記号的に用いてしまうことが聾者の表情豊かなそれと比べて何だか貧しくて恥ずかしい事のような気がして、言語を専門的に調べたいとかそんな事ではなく、単純に言葉を’記号’ではなく’感情’にしたいという気持ちが働いた気がしています。

西条八十は好きな詩人ですが、どうしてこんなに感情のつたわる言葉が生まれるのか分からない。見たままに言葉にしていく語り口が、何らかの感動を要求する言葉とはちがって、そこにある景色がただの背景から前景化していくさまが好きなのです。そうして湿っぽさがなくて、風通しのよい言葉で、厭味に陥ることがない。そういうことばをしっかりと探さなければ不可ないのですが、見えたままのものが美しいから自然そうなるのであって、真似事では不可ない。ことばを探すというのは外を探すのではないから難しいものだとつくづく思い知ります。

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西条八十「帽子」

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。
母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
僕はあのときずいぶんくやしかった、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、
紺の脚絆に手甲をした。
そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。
けれど、とうとう駄目だった、
なにしろ深い谷で、それに草が
背たけぐらい伸びていたんですもの。
母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?
そのとき傍らに咲いていた車百合の花は
もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、
秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。
母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、
あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、
昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、
その裏に僕が書いた
Y.S という頭文字を
埋めるように、静かに、寂しく。

ヨーロッパ古道具骨董 アンティーク
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